温泉と文学 http://www.geocities.jp/gauss0jp/obungaku.htm http://www.a-spa.co.jp/bungaku/
温泉は好きで、よく出かけた。北海道は不思議と多い。沖縄以外はほとんど行った、
そんな気がする。年平均3回として40年であるから120回、多分150以上
はどこかの温泉地を訪問したり、温泉旅館に泊まったりしたように思う。
東京、大阪、京都など市街地の真ん中でも自家の温泉を持っている旅館、
ホテルは結構あるものだ。出張などでは、あらかじめ温泉付きのホテルや旅館
に泊まることを前提に仕事のアレンジをしたこともある。だが、多分に多いのは、
有馬、城崎、越前周辺の温泉地であったと思う。
500キロ以上ある道後温泉へ5時間ほど車を飛ばして いった時の温泉の
緩やかさよりも運転による疲れの大きさに たじろいだ時、雨の中淡路の小さな
温泉に、何のためと思いながら出向いたとき、八尾の風の盆の日、
雨降る中数時間歩いて戻った時の温泉の体にしみこむ温かさに1時間呆然と
湯につかった時の至福の時、様々な思いが体を駆け抜けていく。
1)三朝温泉 山陰の名湯・三朝温泉は、出雲風土記(733年)にも記載された歴史ある温泉である。 源泉が100ヶ所以上、さまざまな泉質を持ち、ラドン含有最高702マッヘを記録する世界 有数のラジウム温泉でも知られる。山陰有数の歓楽温泉であるとともに湯治宿が現在も 活躍する保養温泉である。三徳(みとく)川にかかる三朝大橋の下の河原には、三朝音 頭にも出てくる名物の混浴露天風呂がある。田山花袋、有島武郎、島崎藤村「山陰土産 」、志賀直哉、与謝野鉄幹・晶子夫妻、城山三郎「山陰の温泉二つの顔」、斉藤茂吉な ど文人墨客が訪れ、多くのエッセイを残している。野口雨情作詞の「三朝小唄」は中山 晋平作曲で昭和4年(1929年)に藤本二三吉の歌でレコード化された。松本清張の作品 「Dの複合」では、雑誌社「天地社」の依頼を受けたあまり売れない作家の伊勢忠隆が 「僻地の伝説(浦島・羽衣伝説)をさぐる旅」連載取材旅行で復讐事件に巻き込まれ、 三朝温泉などへの事件調査へ赴く場面を描いている。
万能薬の温泉ラジウム、三朝温泉の旅。小さな頃の思い出が眼前にはっきりともっと見る
浮かんだ来る、そんな思いを強くしたのが、三朝温泉だ。小学生までいた横浜
の鶴見川の横ではラジウムが湧き出ていて、いくつかの温泉や銭湯のような
ものがあった。よくそこで遊びまわった、三朝のラジウム温泉に浸っている
ときその情景が浮かんだ。大きな浴場でもぐったり、泳いだり、怒られたり、
楽しい日々でもあった。多くの文人や天皇までも訪れている。
川波が 雨の裾をば 白くする 三朝の橋を こえてこしかな 与謝野 晶子
三ささ川 きよき流れを われとめて おくのいでゆに 一夜ねにけり
田山 花袋...2)山中温泉
日本全国徘徊行脚の旅に出た芭賞は、山中温泉にたどり着いた。しかし、随伴の疎羅とともに見たものは、かつて栄華から見る影もなく、没落した名湯の姿だった。スラム化した温泉街の細道では、観光客相手に家財を売り払っている人々がいた。湯座の傍で物乞い同然の少年に話を聞き、芭賞と疎羅は唖然とする。代々名門旅館を受継いでいたが、両親は十里離れた三国競艇場に通った挙句、億単位の資産を失ったというのである。
「恵んでくだされ、旦那様。今や百円均一の品物もツケでしか買えない凋落ぶり。今日で三日三晩飲まず食わず。今折ったばかりの菊の花。どうか買ってくだされ」このとき詠んだ「山中や 菊は手折らじ 湯のにおい」は句中の白眉とされる。
途中の杉津インターでは、一度も敦賀湾の絶景を見たことがない。
.当エリアの敷地内にある、「ゆうひのアトリエ」は敦賀湾の絶景が望める、
最高のビューポイントです。「恋人の聖地」にも認定されています。
山中温泉や山代、粟津、あわら、和倉などこの近くの温泉は1回は行った。特に山中は、数回行っている。山中座と共同風呂の前、こおろぎ橋はゆったりと落ち着いている。松尾芭蕉も逗留した。このとき詠んだ「山中や 菊は手折らじ 湯のにおい」は句中の白眉とされるが、この背景には悲しい運命があったようだ。なお、北陸に行くときは概ね途中の杉津インターで一休み。だが、一度も敦賀湾の絶景を見たことがない。「ゆうひのアトリエ」は敦賀湾の絶景が望める、最高のビューポイントなのだが?いつも曇りだ。まあ、いつかは見られると思っているが。
3)山代温泉 山代温泉は、加賀温泉郷の代表的な北陸最大の温泉地である。歴史は古く今から約1,30 0年前に僧行基による開湯伝説がある。江戸藩政時代からの共同浴場「山代温泉御殿」 などの歴史的史跡や300年前古九谷を再興した九谷焼きで有名である。 泉鏡花の「みさ ごの鮨」は、山代温泉を舞台に大正時代の温泉町の人情話を描いた。山本周五郎の「虚 空遍歴」は、江戸時代に人形浄瑠璃師を目指す主人公の冲冲也が諸国遍歴の果てに湯治 場・山代温泉にたどり着く。「日本百名山」をはじめ山の文学で知られる深田久弥は、 今の加賀市出身である。 水上勉の「あかね雲」は、昭和12年頃中国大陸での戦線拡大 の時期、病身の父を持つ貧しい商人宿の女中まつのは外交員の小杉の勧めで、景気の良 い山代温泉に行く。水商売に染まるまつのと小杉との仲を心配する友人の律子、のちに 小杉が脱走兵であることが知れ、猪俣憲兵少尉に捕まる。水平線の彼方にあかね雲がま つのの目に映る。1967年に松竹で映画化された。
4)芦原温泉
あわら温泉、ここは山中、山代温泉をふくめ、よく行く方だ。車で2時間半ほどで気楽に行けるからだ。温泉ものんびりと入れる。途中の越前大野城は有名だが、雲上の姿を見たことはない。水ようかんを食べる程度だ。蓮如の吉崎御坊、東尋坊、結構寄ってみるところも多い。
・粟津温泉
・片山津温泉
・和倉温泉
5)有馬温泉有馬に始めて行ったのは30年以上前になる。その後、何回行ったのであろうか。
金泉の洞穴風呂、ぼこぼことわく温泉の音が響き、温泉お化けがでるといわれる
地下風呂では1人は少し無気味。小高い裏山の上にあった露天風呂からの満天の星
は疲れを忘れさせてくれた。谷崎潤一郎も長く逗留したとのことで、
「猫と庄造と二人のおんな」という飼い猫との交流が描かれている小説の一文にも
有馬温泉が少し見える。 「それは二人が人目を忍ぶ仲になり出して間もない時分、
ある日滝道の終点で落ち合い、神有電車で有馬に行って、御所の坊の二階座敷で
半日ばかり遊んで暮らしたことがあったが、涼しい渓川の音を聞きながら、ビールを
飲んでは寝たり起きたりして過ごした、 楽しかった夏の日のことを、二人とも
はっきり思い出した。」 御所の坊は日本建築の陰翳の豊かな宿だ。
谷崎の好みの温泉宿のような気がする。6)城崎温泉 「城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町のいかにも温泉場らしい情緒 が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町のまん中を貫ぬいている。その両側に 細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、ながめはむしろ曲輪の趣に近か った。また温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから 細い道をはいって行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼き、そういう店々が続いた。こ とに麦藁を開いてはった細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。 宿へ着くと彼はまず湯だった。すぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯 槽の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和らぐのを覚えた。 出て、彼はすぐ浴衣が着られなかった。ふいてもふいても汗がからだを伝わって流れ た。彼は扇風機の前でしばらく吹かれていた。そばのテーブルに山陰案内という小さな 本があったので、彼はそれを見ながら汗のひくのを待った。 ・・・・・・・・」 小説『暗夜行路』 志賀直哉著より
志賀直哉の暗夜行路、城之崎の風情が伝わってくる。変わり映えしないといわれるが、やはり良い。何回行ったであろうか、外湯をめぐり、のんびりと店の散策。もっとも、1人で行くのは辛いものがある。 「城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町のいかにも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町のまん中を貫ぬいている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、ながめはむしろ曲輪の趣に近か った。また温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い道をはいって行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼き、そういう店々が続いた。ことに麦藁を開いてはった細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。宿へ着くと彼はまず湯だった。すぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯 槽の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和らぐのを覚えた」とある。今も変わらぬ情景だ。
7)白浜温泉
7)南紀勝浦
南紀勝浦温泉、洞窟風呂や海岸の露天風呂、と中々に楽しい。 西国三十三所札所一番那智山 青岸渡寺」の帰りだった。 札所はすべて観世音菩薩を本尊とする寺。この菩薩は現世の衆生の嘆き悲しみを聞き、もらさず救うため、33の姿に変化されるといわれる方だからだ。この33カ所の観音霊場を巡れば、この世で犯したすべての罪業が消滅し、極楽に往生できる。これが「西国三十三所巡礼」の根底にある教えという。ゆえに、訪れたすべての寺で「南無大慈大悲観世音菩薩、種々重罪、五逆消滅、自他平等、即身成仏」と唱えなさい、とする手引書もある。西国三十三所巡礼は観世音菩薩と「同道二人」で行く道だが、すべて妻と一緒であり、「同道三人」かもしれないが。さらに罪業が消滅したかは、分からない。合掌
8)別府温泉 家族で車で出かけた、湯布院までの高原のサファリも面白かった。
「別府八湯」といわれる別府温泉は、大分県東海岸裾野に広がる大規模な大温泉地であ る。源泉数3800ヶ所、泉質数11種類、1日11万キロリットルという湧出量を誇 っている。奈良時代からの歴史といわれるが、大正13年の市制施行後の発展が目覚し い。 別府の流川通りを舞台にした織田作之助の小説「雪の夜」が有名である。「雪の夜」 は、大阪でキャバレーの瞳に入れあげた印刷業だった坂田と同じく瞳のひいき客の松本 が別府で再会して語られる切なく懐疑的な話である。後、昭和9年(1934年)に大 阪から別府に移住した次姉千代さん夫婦をモデルにした「夫婦善哉」は、大阪曽根崎新 地の芸者と若旦那を登場人物に、大人の男女の愛の形を情緒豊かに描いている。独特の 風情ある美人画で知られる竹久夢二は、1918年(大正7年)、愛人の彦乃と長崎旅 行の折、別府に立ち寄った。肺結核を患った彦乃を木造2階建ての洋館中田病院(今は ない)に約1ヶ月見舞った。
9)湯布院 小さなお店と可愛い駅舎、家族との団らん
湯布院は家族連れで行った。別府から高原を回り行ったが、やはり温泉は自然の中にあるのが良い。塚原高原やいくつもある共同風呂でのんびりと過ごせた。中には、美人湯というのもあり、肌がつるんと、妻を喜ばせた。お店が多いのは少し気になったが、それはわたしだけだったのだろう。
10)阿蘇内牧温泉
阿蘇山のカルデラの光景、赤牛のおいしさ。熊本空港近くでの不思議な湧水、肌があっという間に
すべすべになる。 11)鹿児島霧島温泉
なぜか、鹿児島空港に降りてしまい、その夜はここで一泊、思いがけない旅の1つ
・長崎雲仙温泉
新婚旅行で有田からゆっくりと雲仙などへ
九州では温泉にまつわる色々な思い出がある。なぜか福岡に降りる予定が鹿児島空港で降ろされ、温泉から見た鹿児島湾の思いもかけない絶景、別府と湯布院は家族とののんびり車周遊、ここの棚湯の絶景は何度見てもいい。長崎は雲仙で妻にぶつぶつわく文句を盛んに言われた温泉以上の記憶がいまだ残る。阿蘇では赤牛のおいしさを内牧温泉で味わったが、熊本空港の途中で不思議な湧水をタクシーの運ちゃんに教わった。その湧水をつけると肌がすべすべになり、近くにはその湧水を使ったラーメン屋が繁盛していた。味が抜群にいいという。やはり火の国だ。残念なのが、手違いでまだ黒川温泉に行けていないことだ。でもここは湯治が似合う!
12)定山渓温泉
北海道は何処にでも、温泉があるのが良い。7月初めごろの爽やかな涼しさ、ちょっと外れた
奥の温泉の露天風呂から見える満天の星の多さと輝きの強さ。交通の不便さを除けば、
やはり冬に行くのが良い。海の幸が美味しい。小林一茶の句がなんとなく合う処でもある。
『雪散るや わきて捨てある 湯のけむり』 『山の湯や だぶりだぶりと 日の長き』 『永き日は 只湯に入が 仕事哉』
千歳空港から、札幌から
昔は冬の期間、市内の高級ホテルでも料金が通常の半分以下であった。
客が少なくなるのと、スキーなどで札幌にあまり泊まらないからだ。 13)トマム
今は星野リゾートだというが、その昔は地域開発が頓挫し、大きなのっぽビルが
幽霊のように建ち、ハエの大群がいた、遠い記憶なのかもしれないが。 14)小樽
朝里川温泉、運河、北一硝子 15)函館
湯の川温泉 16)十勝川温泉帯広
ワイン探索
17)登別温泉 熊の動物牧場、地獄谷
・洞爺湖温泉
昭和新山、洞爺湖の静かな湖面とまだ温かさが残るような昭和新山は
静と動として記憶に深く残った。
・むろらん温泉
・旭川神楽温泉
・日高 温泉名不明、サケ、マスが川で泳ぐのを下から見る
北海道は何処にでも、温泉があるのが良い。7月初めごろの爽やかな涼しさ、ちょっと外れた奥の温泉の露天風呂から見える満天の星の多さと輝きの強さ。でも、交通の不便さを除けば、やはり冬に行くのが良い。海の幸が美味しい。小林一茶の句がなんとなく合う処でもある。「雪散るや わきて捨てある 湯のけむり」。定山渓や小樽朝里川温泉、函館湯の川温泉、十勝川温泉帯広、登別温泉などだ。印象的だったのが、昭和新山の荒々しさと支笏や洞爺湖の湖の静けさだった。さらにバブル崩壊で荒廃したトマム、この近くの温泉はちょっと不明だ?今は星野リゾートが頑張っているようだが。
18)青森
何故行ったのかは忘れたが、青森で思い出すは、ねぶたの里で見た10基ほどの過去に出たねぶたであった。ねぶた祭りには行けなかったが、そばで見る迫力には思わず押し戻された、そんな感触を受けた。浅虫温泉で湯の味を味わったが、はやり湯の中で雪を見るのが、青森での湯めぐり、そんな思いも残った。青函連絡船に時代変化とその大きさも感じたが、ねぶたの迫力には負けるようだ。市内は、不思議と天然の銭湯が多い様に思ったが、冬の長い地方での生活の重要な1つなのかもしれない。
19)秋吉温泉仙台
仙台はどういうわけか4,5回行った。仕事もあり、温泉に浸からずとんぼ返りをしたこともある。街を歩くには、夏の終わりか晩春がいい。木蔭が気持ちよい。秋保温泉は、大和物語や拾遺集に名取の御湯(なとりのみゆ)とうたわれた日本三御湯でもあり、 やはり趣がある。弱酸性とのことでさらさらした湯である。周辺は、結構見どころがあるようだが、牛タンがそれほど美味しいとは思えなかった。名物は何とか、、、の1つなのか?私の味覚が不十分だったのか?
20)新潟 21)会津 東山温泉
大分前だが、仕事の関係で、会津若松を訪れた。記憶にあるのは、東山温泉の宿から露天風呂に浸かってみた夜景の素晴らしさと殿様御膳に舌鼓を打ったぐらいだ。秋口であったと思うが、ゆったりと上る湯煙に包まれ、湯に時間を忘れて過ごした。ここには、多くの文人も来たという。なんとなく、その良さが分かった。もっとも、仕事の方は少しバタバタしたが?22)上諏訪 温泉でその温かさを味わい、さらに土地の食べ物を食するのは極上の楽しみではあるが 、時にその周辺の情景に動かされる場合もある。諏訪の白樺湖はそんな時間であった。 檜風呂のほのかな香りとその白桃の湯の柔らかさは、何とも言えない心地を残したが、 翌日向かった高原の初夏の趣は温泉以上の心地よさを与えてくれた。なだらかな緑の曲 線が目の届く先まで続き、櫛をすいたような薄雲が蒼き空に漂う、緑と蒼と白さが微妙 なバランスで目の前にあった。
温泉でその温かさを味わい、さらに土地の食べ物を食するのは極上の楽しみではあるが、時にその周辺の情景に動かされる場合もある。諏訪の白樺湖はそんな時間であった。檜風呂のほのかな香りとその白桃の湯の柔らかさは、何とも言えない心地を残したが、翌日向かった高原の初夏の趣は温泉以上の心地よさを与えてくれた。なだらかな緑の曲線が目の届く先まで続き、櫛をすいたような薄雲が蒼き空に漂う、緑と蒼と白さが微妙なバランスで目の前にあった。23)下呂温泉
23)白川郷
白川郷は初夏と秋に行くのがよい。夏の緑深き山並み、秋の紅葉を 楽しめる。
途中、2回ほど、御母衣湖のほとりの旅館で温泉につかった。露天風呂で山並みを味わい、山の素材の料理を味わう。 合掌造りを見るのは、
冬が良いというが、中々雪には勝てない。
昔はいくつものトンネルとやや細い道路を行ったものだが、今は 高速道路
が近くまであるという。
24)飛騨高山
飛騨高山は歴史がある。生憎高山祭りのときには行っていないが、飛騨牛の美味しさだけは忘れられない。この近くの平湯温泉も、多くの温泉旅館もあり、下呂温泉と同じく体の芯から温めてくれた。江戸時代から林業で栄えたこともあり、街も温泉も趣がある。
25)金沢 26)福知山
26)天橋立
天橋立は仕事の関係もあり、文殊堂近くの温泉にもよく泊まった。 松林と宿の間の運河?を見ながらも中々に風情がある。与謝野晶子の「人おして 廻旋橋の開くとき 黒くも動く天橋立」 という歌もここで聞いた。もっとも今は機械仕掛けだが。ほぼ対面には、成相寺がある。ここは西国三十三か所の二十八番札所でもあり、ここには妻とおもむいたが、歩くには、少ししんどい。
27)淡路 29)道後温泉 「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天 目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等 へはいるのはぜいたくだと言いだした。よけいなお世話だ。まだある。湯壺は花崗石を 畳み上げて、十五畳敷きぐらいの広さに仕切ってある。たいていは十三四人つかってる がたまにはだれもいないことがある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために 湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人のいないのを見すましては十五畳の湯壺を 泳ぎ回って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よくおりてきょうも泳げるかなと ざくろ口をのぞいてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいてはりつけ てある。.....」 小説『坊ちゃん』 夏目漱石著より
道後温泉、500キロ飛ばして湯船に飛び込む。泊り客が来るには早い。広い湯船にただ1人。思わず、「坊ちゃん」を思い出す。 「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのはぜいたくだと言いだした。よけいなお世話だ。まだある。湯壺は花崗石を畳み上げて、十五畳敷きぐらいの広さに仕切ってある。たいていは十三四人つかってるがたまにはだれもいないことがある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人のいないのを見すましては十五畳の湯壺を泳ぎ回って喜んでいたぞいてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいてはりつけてある。.....」 温泉地にある共同浴場、好きな銭湯の趣があって、好きだ。道後の本館も地元の人がニコニコと迎えてくれた。30)修善寺
「さざんかの宿」は修善寺がモデルという。竹藪の中に楚々と立つ古風な宿と
香でたき清められた廊下に檜のお風呂、
ここには、3回ほど行ったが、すべて関西の顧客で男連れの3人組、何と理不尽な
取り合わせ、一度は妻と行きたいもの?
くもりガラスを手で拭いて
あなた明日(あした)が見えますか
愛しても 愛しても
ああ 他人(ひと)の妻
赤く咲いても冬の花
咲いてさびしい さざんかの宿
修善寺には、かつて桂川の川原沿いに7つの外湯があったとい言われています。
そして残っているのが「独鈷の湯」のみだったのですが、2000年2月12日に
「筥湯」がオープンしました。
ここは外湯となっているので、気軽に修善寺の温泉を楽しむことができます。
筥湯からは、修善寺の町並みが一望できる仰空楼も併設されているので、
ヒノキ造りの内湯に浸かった後は、ぜひ上って眺めを楽んでください。
修善寺温泉の発祥ともなった独鈷の湯です。弘法大師が独鈷という仏具を
石に打ち付けて湯を沸かせたといわれる場所です。
伊豆最古の温泉であり、修善寺のシンボルと言えます。
夏目漱石や岡本綺堂、井伏鱒二らも修善寺にゆかりのある文豪なのです。 温泉や自然、風情のある修善寺に当時の文豪たちも魅せられたのでしょう。 修善寺とゆかりのある文学に触れながら、修善寺の魅力を感じてみませんか。『修善寺物語』明治41年(1908年)岡本綺堂が修善寺を訪れた際、作者不明の古いお面をみて創作したとされています。 明治44年(1911年)東京明治座で二代目市川左團次(いちかわさだんじ)の夜叉王を主役に初演されました。歌舞伎作品としては珍しく各国語に翻訳され、昭和2年(1927年)にはパリでフランス人俳優によって上演されました。 修禅寺に残る古面の興感と、金剛右京の能面にまつわる伝説に取材したといわれる新歌舞伎の代表的作品の一つとなっています。また修善寺に関する作品は戯曲『修善寺物語』の他にも、随筆『春の修善寺』『秋の修善寺』があります。
修善寺に夏目漱石(なつめそうせき)の句碑があることをご存知ですか? 夏目漱石と修善寺にはどのようなゆかりがあるのでしょうか?夏目漱石といえば『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』などの作品の他、ひとつ前の千円札の顔としても馴染みがありますね。 帝国大学(現在の東京大学)・大学院入学やイギリス留学、大学教授などエリートの道を歩んでいるように見えます。しかし里子、養子など経て、実家の夏目家に復籍するなど、少々複雑な幼少~青年時代を過ごし、また漱石が恋心を抱いていたという兄嫁の登志は若くして亡くなったり、養父から金を無心にされたりなど、私生活の方は必ずしも順風満帆とはいかなかったようです。このような複雑な生い立ちのせいか、漱石が生まれもった繊細さのせいかわかりませんが、帝国大学入学のころから厭世主義、神経衰弱に陥りはじめたとも言われています。明治37年(1904年)親交のあった高浜虚子(たかはまきょし)の勧めもあって、精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆します。その後『倫敦塔』『坊っちゃん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていきます。 当時の漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとしており、余裕派とよばれていました。その後、神経衰弱や胃病に苦しみながらも職業作家として歩み始め、『三四郎』や『それから』などを執筆していきます。しかし明治43年(1910年)、『門』執筆の途中に胃潰瘍で入院します。 同年8月、漱石は転地療養に期待し修善寺温泉菊屋旅館に滞在しましたが、病状は悪化の一途を辿り、一時危篤状態に陥りました。これが「修善寺大患」と呼ばれる事件ですが、9月も初旬になると少しずつ快方に向い、10月には帰京できるまでに回復しました。 生死を彷徨ったこの体験が漱石の心に転機をもたらし、以後の作品(『彼岸過迄』『こゝろ』『道草』など)に大きな影響を与えたのではないかといわれています。“修善寺から大仁行きの馬車は互いに「さようなら」「御機嫌克う」と挨拶が交わされて鈴を鳴らしながら出発する。” 吉田絃二郎(よしだげんじろう)は小説から随筆、評論、児童文学、戯曲と幅広い分野で活躍しました。絃二郎の236冊に及ぶ作品の中には修善寺を記したものが少なくないが、『修善寺行』もそのひとつです。 旅を愛し、修善寺の山や川に親しみ、大正5年頃から他界する昭和31年(1956年)まで毎年長逗留することが多く、修善寺をこよなく愛した作家といわれています。そして、42歳で早逝した妻明枝と絃二郎の分骨による墓碑が修善寺を見渡せる鹿山にあります。『山椒魚』などで知られる井伏鱒二(いぶせますじ)は釣り好きだったらしく、修善寺の桂川でよく釣りをしていたと言われています。 また『修善寺の桂川』という作品も残っています。
修善寺温泉は静かでゆっくりと温泉の雰囲気を味わえるところだ。多分、その想いは夏目漱石や井伏鱒二など多くの文学者が逗留した気持ちと変わらないでは、と勝手に思っている。竹林の中に佇む 旅館、香で焚きこまれた廊下、檜風呂の香り、にゆっくりと出来た。「さざんかの宿」は修善寺が背景と言う。言われれば納得。
31)玉造温泉 日本には、いつ頃から人々が集う温泉があったのか。出雲国風土記には、玉造温泉に入 浴のためたくさんの人が集まり、「市」も開かれた、という記述がある。有馬温泉には 舒明天皇、藤原道長・定家、豊臣秀吉などの時の為政者は入湯している。江戸時代にな ると、町民や農民が好んで温泉に入浴して資料が数多く残っている。お伊勢参り、熊野 詣、金毘羅参りの往復に、温泉地に滞在したり、入浴することが1つの楽しみだった。 箱根温泉郷でも、関所の通過前・通過後に温泉に立ち寄る旅行者で大変賑わっていた。
良時代に完成した歴史ある神社。出雲国風土記にも玉造湯社と記され、
玉造の神、国造りの神、温泉の神が祭られています。
こちらの神社では、叶い石で作られたお守りが人気、
玉造温泉は出雲大社に行った折、浸かった。肌に良いというが、たしかにすべすべ感は増したようにも思えた。玉湯川にそった奈良時代からの温泉として長く続いてきたのであろう。その趣は城之崎に似ていた。出雲国風土記には、玉造温泉に入浴のためたくさんの人が集まり、「市」も開かれた、という記述がある。今は、そのような活気は見られないが、静かで数日逗留したいと思いにもかられる。32)香住
正直なところ、香住にはあまり良い温泉はない?でも、この季節はやはりカニづくしの料理が優先だ。城之崎、湯村こちらは、温泉とカニが万遍なく味わえるが、ちょっとした事情もあり、香住でカニを味わった。
33)夕日が浦木津温泉(京丹後) 34)天橋立
35)雲仙温泉長崎
36)鳥羽 37)伊勢志摩
伊勢の温泉は、淡白だ。でも湯船から伊勢湾の大小の島が夕日に映えるのは、温泉の暖かさと赤く燃える海とその調和が良い。 調子がさしてよくなかったが、少し楽になったのは、伊勢神宮お参りの効果かも?だが、この2か月後に3か月の入院となった。既に1年前から進行していたらしいが、よく行けたものだ。
38)嵐山 39)白浜
南紀白浜温泉、あの白い砂の映える海岸近くで泊まるのもよいが、少し山側に入ると、内湯の露天の温泉を備えた宿が思いのほかあるものだ。夫婦2人で行くときは、それが良い。家族で行くときは海岸近くだが、2人の場合は、そちらに泊まったものだ。露天風呂から海が紅く燃える光景は中々に良い。ただ、車で行くと少ししんどいのが、難点だが。
39)熱海
熱海は青春の思い出の多い温泉だ。会社の忘年会や気の合った仲間と行ったものだ。当時は、温泉の良さはほとんどわからず、歓楽街を歩きまわったことと湯船から見える太平洋の青さの記憶しかない。また温泉街の栄枯盛衰を感じたところでもある。バブルで湧いたころの団体客が少なくなるにつれて何度目かにはうら寂しささえ感じた。だが、友との湯船や夜通しの飲み明かしなど裸の付き合いの初めての場所でもあった。最近は、落ち着いた雰囲気の街になったと聞く。また訪れてみたいものだ。
40)湯本 41)高知
高知へ行くのは、高速バスが良い。仲間三人と高知市へ。高知は温泉が少ないが三翠園温泉は川べりのせせらぎに揺られてのんびり寛げる。朝市のほのぼの感が温泉の温かさとともに残った。日本三大がっかり名所と言われる札幌の時計台・高知のはりまや橋・長崎のオランダ坂?後の二つも直接見たが、さすが?はりまや橋もがっかり名所であった。四万十のアユ釣りに何度か誘われているが、なかなか行けない。
42)鬼怒川 43)那須 44)伊香保温泉 伊香保温泉は万葉集に詠まれ、文人墨客が訪れるなど歴史ある温泉地である。360段も の階段の温泉情緒ある温泉場として、小説や映画の場面によく出てくる。幸田露伴、寺 田虎彦、萩原朔太郎、与謝野晶子、島崎藤村、芥川龍之介らが訪れた。竹久夢二は大正 9年、永遠の恋人彦乃を亡くし、以後煩雑に榛名・伊香保温泉を訪れた。彼の生き様や 作品群は「竹久夢二伊香保記念館」に収められている。明治の文豪徳富蘆花の代表作「 不如帰(ほととぎす)」は、日清戦争の時代、封建的家族制度の中で繰り広げられる夫 婦(武男と浪子)の物語で、明治31年に国民新聞に連載された。伊香保温泉の宿で執 筆された作品で、伊香保温泉の一室から物語が始まっている。 林芙美子の作品「浮雲 」は、昭和18年フランス領インドネシアから始まる幸田ゆき子と農林省役人富岡憲吾と の男女のやるせない関係を描いた作品である。厭世観に襲われた二人が心中しに伊香保 温泉に来た場面が描かれている。情緒豊かな伊香保温泉街が男女の関係を描くにふさわ しいのだろう。
映し出された伊香保温泉の情景がまだ東京にいたころの自分をふと思い出させた。暮れの休みに友達と行った温泉街。何百段もあった石段と腰の強かったうどんの味だけがほのかに思い浮かぶ。若さあふれる遠く懐かしい思い出だ。鉄分の多い温泉だというが、その感じは消えている。
45)伊東温泉
46)強羅温泉
47)和倉温泉
48)宇奈月温泉
49)湯村温泉
50)湯河原温泉
一年を通して温暖な相模湾に面し、風光明媚な湯河原温泉は、落合橋を中心に藤木川、
千歳川沿いに旅館街を形成している。万葉集に歌われた古い歴史を持ち、古くは「コゴ
ミの湯」「コウメの湯」江戸時代には外傷に効くことから「傷ノ湯」といわれていた。
明治時代中期から閑静な環境と良質の温泉から文人墨客が訪れ、この街で筆をとり数多
くの名作が生まれた。
国木田独歩は、「都の友人へ、B生より」「湯河原より」などで、湯河原の情景を「
湯河原の渓谷に向かったときはさながら雲深く分け入る思があった」と表現している。
島崎藤村は、名作「夜明け前」の執筆中、夫人に勧められ湯河原で静養している。夏目
漱石は湯河原を舞台にした小説「明暗」を執筆、芥川龍之介も小説「トロッコ」「一塊
の土」「百合」、山本有三は「無事の人」「濁流」を執筆し、「山ひだの 深まってゆ
く 冬日かな」の句を残した。谷崎潤一郎、与謝野晶子、丹羽文雄、吉川英治なども湯
河原温泉に大きな足跡を残している。丹羽文雄の小説「運河」は、1958年湯河原温泉を
舞台に映画化された。今は少なくなったが、40年ほど前は忘年会、歓迎会などには、
よく所属するメンバー全員で旅行、温泉などに行ったものだ。熱海にはよく行った。
時に近くの湯河原温泉に行ったが、熱海と全く違う趣に温泉の良さを初めて知ったものだ。
自然の中に浸りきる、これから温泉好きになったのかもしれない。
そのような情景に引き寄せられるのであろうか、夏目漱石、島崎藤村、芥川龍之介
など多くの文学者が好む地であった。数10年ぶりに行ってみたいものだ。
51)郡上八幡温泉
郡上八幡の温泉は単純泉であり、淡白な味だ。しかし、西国33か所の最後の札所、
谷汲山華厳寺での帰りでもあり、心軽き旅となった。さらには、八幡は水の街だ。
そのさざめきがその心根に響いたのかもしれない。小さなお城のかわいらしさと
四方から聞こえる水音は満願成就の2人に温泉の心地よさと安らぎをくれた。
9月とはいえ、そぼ降る雨に濡れてようやく宿の温泉に浸かれた時の安堵、
体が融けていくようだった。温泉の良さをあらためて感じた。越中八尾の風の盆
を見にいった時、風の盆の情景とともに、忘れられない時間だった。ここは、
高橋治氏の「風の盆恋歌」で一躍有名になった。また、石川さゆりさんが歌う
「風の盆恋歌」もある。風の盆恋歌の一番目の歌詞は次のようになっている。
「蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉
若い日の 美しい 私を抱いてほしかった 忍び逢う恋風の盆」
町は石と水の街だ。小説はかっての恋人同士が1年間に3日間だけ再び愛し合う
「蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉
若い日の 美しい 私を抱いてほしかった 忍び逢う恋風の盆」
町は石と水の街だ。小説はかっての恋人同士が1年間に3日間だけ再び愛し合う
小説であり、夜の踊りは編み笠の女性とともに、その甘き情景を醸し出す、
そんな街でもある。たしか温泉は、近くの山田温泉と思っているが。
51)高野山福智院
高野山の宿坊で天然温泉に浸かる。滋賀からは4時間近くかかるが、2回ほど行った。
夜の精進料理と露天風呂、朝の読経と説法、ちょっと車で行くのがしんどいがまた行きたいもの!ちょっと面白かったのが、湯屋の洗い場が畳敷きであったこと、もっともビニール製の畳ではあったが。司馬遼太郎の「この国のかたち」に「湯聖ゆひじり」という章がある。ここの聖が「入浴に宗教性を加えた」とある。納得!!
夜の精進料理と露天風呂、朝の読経と説法、ちょっと車で行くのがしんどいがまた行きたいもの!ちょっと面白かったのが、湯屋の洗い場が畳敷きであったこと、もっともビニール製の畳ではあったが。司馬遼太郎の「この国のかたち」に「湯聖ゆひじり」という章がある。ここの聖が「入浴に宗教性を加えた」とある。納得!!
52)岩室温泉
「岩室温泉」は新潟県の中央に位置し、「新潟市の奥座敷」として、
越後の一宮「弥彦神社」の参拝拠点として古くから栄えてきました。
温泉地としては江戸時代の伝説で、傷を癒す位置羽の雁を見つけあのが
発祥とされ「霊雁の湯」とも呼ばれていました。
また、新潟の芸妓発祥の地と言われ、芸妓さんの姿や三味線の音が
華やかさを醸し出しています。さらに、武蔵野美術大学芸術文化学科
と共同して「アートサイト岩室温泉」を開催するなど、アートな
雰囲気で人気の温泉地です。
8年ほど前、息子の関係で東京から新潟、さらに滋賀の我が家へと
1千キロ近くを車で移動した。新潟で泊まったのが、この温泉だった。
疲れ切った体にエネルギーをくれたのが、温泉だった。
52)淡路の温泉
すでに廃止となったが、明石のタコフェリーに乗って大橋の近くにあった淡路側の
小さな温泉の露天風呂、晴れた日は海峡の絶景を裸で眺め、半日を過ごした。
帰りには魚の棚商店街で新鮮な魚やたこ焼きで夕刻までを過ごした。
小さな温泉の小さな旅。数回訪れたが、気楽で楽しい。
53)山田温泉
是非にと思うモノを見て、その近くにある温泉で寛ぐ、一石二鳥の欲張った旅だが、
小布施への旅がそうだった。好きな北斎の絵を見て、温泉に浸かる、
何と幸せなことか!善光寺の後とまっすぐに小布施の2回ほどであったが、
近くの山田温泉も趣があり、よかった。もっとも、2回目の温泉場所は
思い出せないが、歳だ。
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